最後のNECとDos-V(PC/AT互換機)

1998年にクライアント機を1台買い換えた。Windows98のNEC9821-Mateだ。Dos-Vにしようと思っていたが、秋葉原ラオックスの裏にある店でタワー型のMateがえらく安く売られていたのだ。このマシンは4-5年クライアントとして働いていたが、その後FreeBSD機となり、前述のXa7eとともにサーバーとして2012年まで働いた。このMateが私にとって最後のNEC機となった。

2000年に買い換えたクライアント機は、富士通のDos-Vだった。OSは出たばかりのMEではなくウィンドウズ98にしたかったのだが、何故かMEを載せたパソコンの方が遙かに安かったので、仕方なくMEにした。NECも確か少し前には独自路線を減らし主力をDos-V機に移行し始めていたと思う。しかしハードは旧NECの方がずっと優れていたように思う。組んでいるビス一つにしてもDos-V機より良いものを使っていて、作りがしっかりしていた。だから10年以上普通に使えた(xa7eは17年、mateは14年間稼働した)。キーボードも打ちやすかったし配列もDos-Vより良かった。本当はキーボードだけでも独自なものを残して欲しかった。それならNEC機を続けて使っていたのではないだろうか。

事務所のパソコンにはまだWindows3.1のNEC9801が働いていたが、2001年頃にはMateとxa7e以外すべてDos-V機になっていた。Windows95以降、Dos-V機の方がNECより安定していたように思う。NEC98シリーズに10年以上親しんだ身としては寂しい限りだ。しかしFreeBSDのおかげでサーバーとして寿命を全うしてくれたと思う。ところで何故日本勢はWindowsのようなOSが作れなかったのか、そこに日本という国というか社会(または日本人)の足りないところが見えるような気がする(ちょっと大げさかなあ)。

Dos-Vノートパソコンと後進国日本

1995年、持ち運び用にノートを買った。東芝のDos-V(PC/AT互換機という意味で使う)のWindows3.1マシンで、海外出張時にも常時持って歩いた。
SS433というB5ノートだったと思うが確信はない(まだ捨てていないのでどこかにあるはずだが…)。タッチパッドはなく丸いボッチ(アキュポイント)が付いていた。あれは使いやすかった。メールがまだ一般的でなく、カードスロットにモデムを差して、Niftyのパソコン通信でニュースを取ったり、ファックスを発信したりしていた。

アトランタ五輪の時に出張でニューヨーク、マイアミ、パラマリボ(スリナムの首都。こんな国知らないでしょ?)に行った。日本がブラジルに勝ったサッカーの試合「マイアミの奇跡」をマイアミのホテルのテレビで観戦した(どうしてスタジアムに行かなかったのか?)。
そのときもファックス送信などでノートが活躍してくれた。

あの出張で一番びっくりしたのは、アメリカでもスリナムでも電話機の手前か横にモデム用の端子があって、どこでもさっとモジュラーケーブルを差してパソコンをつなげることが出来たことだ。日本にはそんな電話機はなかった。日本で出張したときは、ホテルの電話機から電話線を外して、自分のモジュラーケーブルをつけなければならなかった。そのために、モジュラー線どうしをつなげるアダプタを持ち歩いていた。しかも、値段の高いホテルは電話線が外れないのが普通で、お話にならなかった。あの頃から日本の通信環境(に関する考え方)は後進国だったのだ。

スリナムはひどい遅れた国で、国際空港と言っても日本の地方空港より小さくて、空港建物も木造がメインだった。タラップもないので、出入りできる飛行機はオランダのフォッカー28のような階段付きの飛行機だけだ。しかも滑走路が短いために、ダグラスDC9は階段が付いていても、離着陸できないということだった。首都にちゃんとしたホテルもなく、宿のシャワーはお湯も出なかった。ただあの町が良いと思ったのは、電話機にモデム端子が付いているのと、
スズメの代わりにインコやハチドリがその辺を飛び回っているのと、カラスの代わりにコンドルがたむろしていることだ。
そんな国より、日本のパソコン通信環境は劣っていたのだった。

Windows95とFreeBSD

95年の秋にWindows95が発売されたが、我が事務所は1年以上購入を見送った。すぐに飛びついてもあまり良いことはないだろうという思いと、Netware(Lite)がそのままでは使えないようだというのが理由だ。Windows95同士でピアツーピアのLanは組めるという話だが、やってみないとどれだけのものか分からない。一台をサーバーにして、今までのような使い方ができるかどうかも心配だし、事務所のパソコン6-7台を一度にWindows95に変えるのは費用がかかりすぎる。そうしているうちに、NetwareLiteのバージョンアップ通知が届いた。Windows95でも使えるということなので、早速バージョンアップを購入した。確か5ライセンスで16万円だったと思う。
それで一台のパソコンをWindows95にしてみた。ところがいざNetwareをインストールしようと説明書を読み始めたら、なんと(ドジなことに)最低でも16メガのRAMが必要と書いてあるではないか。今でこそたった16メガかと思うが、当時としては結構大変なことだった。事務所のパソコンで一番RAMを積んでいるマシンでも、14メガだ。念のため一応インストール作業はしてみたが、完結できない。さてどうしようか。
拡張スロットにRAMを追加するのは、負担が大きすぎるし、そのマシンがいつまで使えるのかも不安だ。新しいパソコンを買うのは、もっと費用がかかる。結局あきらめて、金銭的な余裕が出来るまで、当分我慢することにした。

ところがそれからしばらくして私にとって転機となる大きな出会いがあったのだ。
秋葉原ラオックスパソコン館の書籍売り場でいつも通りあちこち本をめくりながら、時間を潰しているときに、FreeBSD(98)という本に目がとまった。表紙に、NECパソコンにUNIXがインストールできると書いてある。これはひょっとすると救いになるかもしれない、と思いつつ、その3800円の本を買った。翌日、早速付属していたCDROMとフロッピーディスクで、バックアップ用に稼働していたマシンNEC-RA(確か11メガのRAMを積んでいた)をフォーマットしてインストールを始めた。はっきり記憶はないが、インストールするのに試行錯誤しながら3日かかったと思う。MS-DOSしか扱っていなかった人間にとって、パーティションだとかカーネルだとかパッケージだとかまごつく単語ばかりで、どうなることかと思ったが、とにかく3-4日後に無事UNIX(らしきもの)が動き始めた。SHELLがいくつもあって好きなのを選べるというのも驚きだった。私は一番分かりやすそうなTCSHにした。その日から毎夜数時間はどっぷりそのマシンと格闘した。

数ヶ月後、頑張った甲斐あってバージョンアップしたFeeBSD2.2.7でサーバーが稼働を始めた。xa7eをメインサーバーにし、RAをバックアップ用のサブサーバーとした。ネームサーバー(DNS)、ウェブサーバー(アパッチ)、ファイルサーバー(サンバ)、メールサーバー(sendmail)などがしっかり動き始めた。感動的だった。
Netwareと比べ、サンバは速くて安定している。ローカルハードディスクと同じくらいのスピードでファイルの読み書きができるのだ。またPPPで、クライアントがブラウザ(Netscape)を動かすと、FreeBSDサーバーがダイアルアップ接続して、インターネットにつなげてくれる。メールも定期的にフェッチして個々のクライアントに配信してくれる。今までの数十倍良くなった。安定度も抜群で、Netware時代は1週間に1回はサーバーが暴走し、そのたびにリセットを繰り返していたのだが、FreeBSDは全くハングしない。
しかも、ハードへの投資はゼロ。書籍代に合計1万円程度かかっただけだ。これから約10年、バージョンアップを繰り返しながら、このサーバーは動き続けた。止まったのは一回だけ。それも、FreeBSDが原因ではなく、ある夜、数秒間停電があったときだけだ。何の予告も無しに東電が勝手に電気を切ったのだ。いきなりのパワーダウンでFreeBSDが立ち上がらなくなり、復活するのに2日かかった。その上、ファイルの修復に手間取り、元通りになるにはさらに2日を要した。東電に電話をかけてクレームしたが、若い人間が菓子折も持たずに言い訳にやってきただけだった。その経験でオムロンのUPSを購入する羽目になった。それまで、全く考えなかったのがうかつではあったが、東電に対する大きな不信感が残った。まあ、しかしファイルの修復という滅多に出来ない経験が出来たのは収穫だったと思って我慢することにした。

パソコン通信

1994年にNiftyの会員になって、パソコン通信を始めた。Nifty以外にもサービスがあったように思うが、おそらく、アクセスポイントが多いのでNiftyを選んだのだと思う。当時は、電話回線で、2400bpsのモデムを使ってアクセスポイントに接続していた。今から考えると、ずいぶんちゃちな環境だが、当時はほかに方法がなかったし、テキストベースで通信をするにはそれでも十分だった。
市外電話の料金がまだ高い時代だ。アクセスポイントが遠ければ通信費が結構な金額になってしまう。だからアクセスポイントが多いのはたいへん大事なことだった。

最初は、相手がいないので電子メールは使ったこともなく、もっぱらニュースや企業情報を取ったり、フォーラムを覗いたりしていた。アクセスポイントにつなげると、

  1. サービス案内
  2. 電子メール
  3. 掲示板
  4. ・・・

などとメニューが現れる。番号を入力してエンターキーを押すと、次の画面に進む、という具合だ。

当時最大のパソコン通信ネットワーク、米国のCompuServeにアクセスすることも出来た。はじめからそのアクセスサービスが付属していたのか、何らかの手続きを取ったのかは覚えていない。CompuServeの情報量の多さにはびっくりした。世界のニュースのキーワードクリッピングサービスで、日本では見られないインドネシアのニュースなどもファイリングすることができた(確か有料だったが)。

このテキストベースのパソコン通信はいつまで続いていたのか。ネットスケープのブラウザが現れてから、あっという間に不要になってしまった気がする。90年以降、パソコンや通信環境の変化はものすごかった、と改めて思う。

Windows3.1

1993年にWindows3.1を導入した。
今までと一番の違いは、シングルタスクではなく、マルチタスクになったことだ。MS-DOSもバージョンアップして一応マルチタスクになっていたが、タスク切り替えが不便で使い勝手が悪かった。Windowsはマウスでアプリケーションの切り替えが出来るので、わかりやすく、快適だ。見栄えもアップルのようにきれいになった。ただ、マウスの作業が増えると、目は疲れるし肩は凝るし、今までの倍疲れる。かえって効率が下がったような気さえする。安定感ももう一つでよく暴走した。

Windows3.1はベースがMS-DOSなので、NetwareLiteやdBASE3もそのまま使えた。これは助かった。数年後には両方ともお蔵入りすることになるのだが、よく働いてくれたと思う。dBASE3はCUIの上スタンドアロンが前提なので、一般的には使いにくい(実は個人的にはデータベースはGUIよりCUIの方が適しているように思う)。サーバーにデータを置いて、皆でそれを利用するという使い方が出来ない。そろそろ別の何かを考えないと支障が出てくるかなと思う。
表計算がエクセルになり、従来dBASE3で処理していたことの多くがエクセルで出来るようになった。エクセルのファイルをサーバーに置いておけば、とりあえず全員が使える。かっこよい表も作成できるようになった(しかし見た目にこだわるようになって、仕事の効率をかえって下げる原因にもなった)。
日本語FEPはいろいろ発売されていたが、ATOKが一番だった。変換ミスが圧倒的に少ない。マイクロソフトのFEPは全くだめだった。

dBASE3

1988年頃ヒダヤットの弟がアメリカ留学からインドネシアのパレンバンにdBASE3を持ち帰ってきた。ヒダヤットの会社は生産管理、給与管理、販売管理などすべてをdBASE3で組むことになった。弟がマニュアルをコピーしてくれたので、彼のパソコンを拝借してどんなものか試してみた。データベースという概念さえ全く頭になかったので、衝撃を受けた。これは素晴らしいかも、と思った。
おそらく、dBASE3はMS-DOSの歴史の中で一番優れたアプリケーションだと今でも思う。たった300KB位のソフトでデータベースに必要なことがすべて間に合った。

帰国した私は早速dBASE3を購入した。
今まで、ワープロと表計算で間に合わないことはベーシックを基調に一部機械語で独自ソフトを作って間に合わせていたが、この日からほとんどすべてがdBASE3に替わった。今のSQLよりずっとフレキシブルで、洗練されていた。dBASE3自体が優秀なプログラミング言語といっても良いと思う。ベーシックのように行き当たりばったりに、goto文であっちへ行きこっちに行き組み上げるというわけには行かず、しっかり構造を決めないとプログラミングが出来ない。これで、私のプログラミング技能が少しましになったと思う。しかしコンパイルするわけでなく、あくまでインタープリターだから、試行錯誤しながら頻繁に改善できる。足りない点があればすぐに追加し、確認することが出来た。

気に入らない点が一つあった。それは、印刷の機能が弱かったことだ。英文ならタイプライター式に文字と数字をTABで区切りながら並べてゆけば、結構見栄えの良いものも作れるが、日本語はそうは行かない。ただ、そこはデータベースという本来の機能とは別なので、文句を言うことではないだろう。私は罫線を引いたり、文字を大きくしたりする部分は、独自に書いて組み込んだ。

ファックス

時代は前後するが、私が初めてファックスを目にしたのは、1978年か79年だ。
インドネシアで船積みを立ち会った貨物船の中で、オペレータ(無線技士)がニュース記事を見せてくれた。航路中に船に本社から無線でニュースが送られてくるのだそうだ。見ていると、テレックスくらいの大きな受信機から、ゆっくりゆっくり紙が流れて、文字が現れてくる。テレックスと違い、日本語の文字や絵が受信できる。これはすごい。 これからは、これが世界に広がるはずだ、とオペレータは言っていた。

10年程経って本当にそうなった。

脱サラした当初は、まだテレックス専用機が活躍していた。原稿を打つと、2センチ幅ほどの長いテープに5列(4列だったか)の穴が開いて出てくる。そのテープを所定の差し込み場所に挟んでから、テレックスを海外の相手につなげる。接続後、そのテープを流すと、先ほど作った原稿がそのまま相手に流れてゆく。

脱サラ2年目にはテレックスの機械が小さくなり、原稿をパソコンで打てるようになった。ゴミになる穴の開いたテープは不要になり、画面上で文章を作成・修正できる。これは便利と喜んでいる間にファックスが出回ってきた。数年の間にほとんどの相手がファックスを導入し、1990年頃にはテレックスは全く使わなくなっていたと思う。

そのファックスも、今ではただのレガシーになろうとしている。あれから40年くらいしか経っていないのに。オペレータさんはまだお達者だろうか。

NetWare

1990年か1991年頃まで、我が事務所のパソコンはすべてスタンドアロンで稼働していた。ハードディスク(確か20メガバイト程度。もっと小さかったかな)はすでにあった。MS-DOSにワープロ一太郎と表計算マルチプランが全部のパソコンにインストールされていて、ファイルのやりとりはフロッピーディスクで手渡ししていた。マイクロソフトのマルチプランはあまり普及しておらず、どこもロータス123だったのだが、どうして我が社はマルチプランだったのかは覚えていない。プリンター自動切り替え機なるものがあって、パラレル端子を接続した複数のパソコンから一台のプリンターで印刷ができた。切り替え機のキャッシュから順にプリンターにデータが流れ印刷するという原始的な機械だが、結構役に立った。

ファイルをフロッピーディスクの手渡しでやりとりするのは、いろいろ問題があった。
本人がいなくてディスクの所在がわからないとか、
何人も同じファイルを使いたいとか、
落として割れてしまったとか、
時々様々な事故が起こった。
それで、Netwareの導入を考えた(Netwareといっても、NetwareLiteだったが)。
大きめのハードディスクとプリンターを接続したパソコン1台をファイル兼プリンターサーバーにし、ほとんどのパソコンをLanボードでつなげた。ファイルの所有者やアクセス制限はどうなっていたのか。多分誰でもアクセスできる無防備な状態だったと思うが、それが問題だと思ったことはなかったと思う。切り替え機がお蔵入りすることになったが、とにもかくにも、感動的に便利になった。

MS-DOS

1986年か87年に、ヒダヤットの友人、シンガポールのマイケルの事務所にもパソコンが入った。OSがMS-DOS、表計算Lotus-123とワープロソフトWordStarが付属しているIBM製だ。最近まで使っていたタイプライターは横に置かれ、ユニスがパソコンで文書を作っている。作業効率は圧倒的に良くなったように見える。タイプミスしても大騒ぎせず、カーソルを戻して打ち直せば良い。

そのパソコンがどんなものか、少しいじらせてもらった。PC-9801と違い、ベーシックはROMにはいっておらず、フロッピーディスクに記録されたOS付属の1アプリケーションだ。ベーシックのコマンドはだいたい共通のようだが一部がNECと異なっている。またOSに、Masmが無料で付属している。これは、雑誌で読んだばかりだったが、機械語アセンブラーだ。いちいちコード表とにらめっこせず、コマンドをならべて機械語プログラムを作ることができる。すぐにでも欲しいと思ったが、NECパソコンが対応するのに1年くらいかかったと思う。

インドネシアのヒダヤットやクリスマンのところにもIBMパソコンが導入されたので、Masmを触る機会は思ったより早くやってきた。クリスマンから頼まれ、データ計算プログラムを作成した。やはり画面表示がモッチャリしているので、その部分をアセンブラーで書いてコンパイルした。コード表とにらめっこするよりはましだったが、正直言って難しい。一日中マニュアルと格闘していた気がする。

NEC PC9801-VF

1985年、脱サラした私は、知人の事務所の一角を借りて、机一つで仕事をすることになった。その事務所に知人が買ったばかりのPC9801-VFが2台あり、そのうちの1台を使わせてもらうことになった。ユーザーメモリーが256KB(384KBだったかもしれない)、5インチフロッピーディスクドライブが2基、、8ビットから16ビットに進化したばかりの当時としては十分なスペックのパソコンだった。OSはNEC独自のものだったと思う。立ち上げるとベーシックの画面になった。簡単なエディターが付属していたと思うが、そのままではほとんど何もできない。ベーシックでプログラムを自作する必要があった。仕事に必要なデータ整理プログラムをなんとか作り上げて、私はそれを利用していた。画面表示が遅すぎたので、その部分は機械語で組んだ。これは面倒だった。A4ページ見開き(だったと思う)に、機械語命令セットが記載されている。16進数とコマンドが並んでいる表だ。それを見ながら必要な命令セットの16進数を並べてゆく。ちょっと間違えると暴走するので集中力と根気のいる作業だった。とはいえ、内容はそれほど難しいことではない。当時のPC9801の画面表示は、あるアドレスのメモリーと画面がリンクされていて、そのメモリーに2進数を書き込めば、それがそのまま画面に表示される仕組みだった。アドレスは赤、緑、黄、濃淡の4アドレスあり、それでカラー画面を表示する(最初は赤緑黄の3アドレスだったかもしれない)。だから、アドレスと2進数を正しく書き込むだけで良かったのだ。

作成したプログラムはフロッピーディスクに書き込む。使うときには、ディスクドライブに差し込んでプログラムをユーザーメモリーに読み込ませて動かす。今から考えるとずいぶん面倒だったが、それで十分だった。自分で好きなようにできる分、今より快適だったかもしれない。

それから約10年PC9801にはお世話になった。おそらく、合計20台くらいは購入したはずだ(累計1000万円くらいだ。NECさん感謝してね)