スリナム出張で驚いたこと(番外編)

アトランタオリンピックの時のスリナム出張の思い出。前の記事で、日本とスリナムの通信について書いたが、それ以外のことで驚いたことについて書き記しておく。

マイアミ空港の日本人

スリナムに向かう朝、早朝便(多分7時か8時)だったので、6時頃スリナム航空のカウンターに行った。すると、同乗する客の中に日本人はまずいないだろうと思っていたが、50歳代と思われる日本人男性がカウンターで怒鳴っている。後ろに並ぶと、職員が、飛行機が遅れるのでまだチェックインできないと言っている。その男性は英語が分からないようで、何故手続きできないのかと日本語で怒っている。仕方なく私がその男性に飛行機が遅れていることを説明した。職員が3時間後に来るようにと言うので、それを伝えたら、ようやく落ち着いて、心配だからここで待っていると近くの椅子に座った。話を聞くと漁業関係者でスリナムに魚を買い付けに行くと言う。今、日本で売られているししゃもはほとんどがししゃもに似た何とかという魚でスリナムなどの南米大西洋側から輸入されているのだそうだ。はあ、なるほど、でもスリナムで言葉は大丈夫ですかと聞くと、心配ない、日本語だけで何とかなるとおっしゃる。この方、パラマリボ(スリナムの首都)に着くとちゃんと現地の人の迎えが来ていて車に乗ってどこかに向かって行った。しかし度胸のある人がいるものだと感心した。あの調子で一人で日本からやってきたのだ。

マイアミ空港のサンドイッチ

待ち時間が長くなったので、何か腹ごしらえしようとその辺をぶらぶらしていると、オープンスペースのコーヒー店があった。軽食もあるようなので、何か食べようと中に入った。サンドイッチが3、4種類あったが、売れてしまってこれしか残っていないという7ドルの「ターキーサンドイッチ」とコーヒーを注文した。高いな、まあ空港だからこんなものか、と思っていたら、マックの3倍くらいのパンに、はみ出るほどのターキーが7枚挟まって出てきた。あんたはラッキーだ、普通は6枚だが、これが最後の注文なので、残った肉を全部挟んだ、ははは、と言っていた。それにしても、6枚でも食い過ぎだろ。どうりで太めの人間が多い。

パラマリボの水道

この話は信じない人が多いのだが、パラマリボは水道の水が直接飲める。
今まで、水道の水を飲んで良いと言われたのは日本とシンガポールだけだったので、
ここで水道の水を飲めると言われたときは半信半疑だった。
確かに見た目はきれいに澄んでいるが、本当に飲んだら間違いなく下痢だろうと思った。
だが、湯沸かし器もないし、仕方ない、信用して飲んでみようと、思い切って飲んでみた。すると結構おいしいではないか。日本の水より少し硬い感じがしたが、それがかえって良い。スリナムにいた約10日間ずっと飲み続けたが何も起こらなかった。この話を帰国して話したら、おまえだから大丈夫だっただけだろうと、パラマリボの水の良さは誰も信用してくれなかった。

スリナムの鳥

これには感激した。朝起きて散歩をしていると、木々の花の間にきれいな虫が飛んでいる。
何だろうと思ってよく見ると、虫ではなく鳥だ。小さな鳥が花の蜜を吸っているのだ。それも何十匹となく飛び回っている。これがハチドリか、初めて見た。それにしても町の中にいくらでもいるのは驚きだ。皆に見せてあげたいと思った。もう少し大きい鳥、ムクドリくらいのインコも飛んでいる。色鮮やかなインコが日本のスズメのようにその辺を飛び回っている。最近東京でも見る(2017年現在のことです)緑インコではない。赤や黄色の美しいインコだ。そういえば、インコとの生存競争に勝てないのか、スズメは見ない。
さらに驚くのは、郊外に出るとコンドルがその辺をうろうろしていることだ。何十匹ものコンドルがカラスのように高い木の枝に止まって下を眺めている。下に降りてきて何か餌をつっついているのもいる。朝事故で死んだ犬とかがころがっていても片付ける必要はない。夕方にはすっかり骨になっていると言う。おそらく本当のことだろうと思う。そういえば、やはりカラスは見ない。

日本大使館

これは書こうかどうか迷ったが、驚いたことなので、書いておく。

パラマリボにも日本大使館があった。大使館と言っても、貸しビルの2階と3階だ。多分、暫定的にそこで開いているのだと思う(おそらく現在はちゃんとした大使館があるのだろう)。私は治安情報が欲しかったので、パラマリボに着いた翌日住所を調べて大使館を訪ねた。滅多に来ない日本人のはずなので、ちょっと歓迎してくれるのではないかと、期待して中に入ったのだが、とんでもない。大使つきの・・さんという男性職員が出てきて、民間人とは関わりたくないと、けんもほろろの対応だ。スリナムの治安について情報が欲しいのですが、と言うと、私どもも赴任して間もないのでよく分からない、まあ気をつけて行動してくださいと冷たく言われた。そういえば、ジャカルタでプレジデントホテルに宿泊しているときに先輩から、何かあったら日本大使館ではなく英国大使館に飛び込め、さもなくばロシア大使館だと言われたのを思い出した。プレジデントホテルの目の前には、日本大使館とロシア大使館が並んでいる。ホテルに向かって右手には英国大使館があった。なるほど、こういうことかと改めて思った。

チェロキーとランクル

トヨタ自動車の宣伝になってしまいそうなので、ちょっと躊躇するが、思い出として書きとどめる。

パラマリボに着いた翌々日と思うが、車で地方に出かけた。知り合いの華僑の製材工場建設の視察だ。工場はパラマリボから100キロくらいの場所だったと思う。道路状況があまり良くないと言うことで、3500か4000CCジーゼルのランクルと、もう一回り大きい(多分4000CC以上と思う)チェロキーで出かけた。こちらの方が乗り心地が良いというので、私と知り合いはチェロキーに乗り、知り合いの部下数名がランクルに乗った。ところが運悪く途中で雨になった。ひどいどろ地(砂と粘土が混ざったような感じ)でジープでも通れないかもしれないと、はらはらするほどのぬかるみだ。そんな中を何とかとろとろ進んでいたが、チェロキーが泥にはまって動かなくなった。4駆の右側2輪が深みにはまったのだ。ドライバーがアクセルを踏むとタイヤが土をほじって左側まで沈んでしまった。ランクルの運転手の方が慣れていると言うことで、運転を代わったがどうにもならない。たまたま近くに木も建物もなくウィンチは使えない。ちょっとリスクがあったが、後ろにいたランクルが左側を何とかすり抜けてチェロキーの前に出た。ランクルがロープでチェロキーを引っ張り上げてみることになった。2台とも泥に埋まってしまうのではと心配したが、数分後にはランクルのトルクでチェロキーが深みから抜け出た。すごい。発展途上国でランクルが幅をきかせている理由がよく分かる出来事であった。

Dos-Vノートパソコンと後進国日本

1995年、持ち運び用にノートを買った。東芝のDos-V(PC/AT互換機という意味で使う)のWindows3.1マシンで、海外出張時にも常時持って歩いた。
SS433というB5ノートだったと思うが確信はない(まだ捨てていないのでどこかにあるはずだが…)。タッチパッドはなく丸いボッチ(アキュポイント)が付いていた。あれは使いやすかった。メールがまだ一般的でなく、カードスロットにモデムを差して、Niftyのパソコン通信でニュースを取ったり、ファックスを発信したりしていた。

アトランタ五輪の時に出張でニューヨーク、マイアミ、パラマリボ(スリナムの首都。こんな国知らないでしょ?)に行った。日本がブラジルに勝ったサッカーの試合「マイアミの奇跡」をマイアミのホテルのテレビで観戦した(どうしてスタジアムに行かなかったのか?)。
そのときもファックス送信などでノートが活躍してくれた。

あの出張で一番びっくりしたのは、アメリカでもスリナムでも電話機の手前か横にモデム用の端子があって、どこでもさっとモジュラーケーブルを差してパソコンをつなげることが出来たことだ。日本にはそんな電話機はなかった。日本で出張したときは、ホテルの電話機から電話線を外して、自分のモジュラーケーブルをつけなければならなかった。そのために、モジュラー線どうしをつなげるアダプタを持ち歩いていた。しかも、値段の高いホテルは電話線が外れないのが普通で、お話にならなかった。あの頃から日本の通信環境(に関する考え方)は後進国だったのだ。

スリナムはひどい遅れた国で、国際空港と言っても日本の地方空港より小さくて、空港建物も木造がメインだった。タラップもないので、出入りできる飛行機はオランダのフォッカー28のような階段付きの飛行機だけだ。しかも滑走路が短いために、ダグラスDC9は階段が付いていても、離着陸できないということだった。首都にちゃんとしたホテルもなく、宿のシャワーはお湯も出なかった。ただあの町が良いと思ったのは、電話機にモデム端子が付いているのと、
スズメの代わりにインコやハチドリがその辺を飛び回っているのと、カラスの代わりにコンドルがたむろしていることだ。
そんな国より、日本のパソコン通信環境は劣っていたのだった。

Windows95とFreeBSD

95年の秋にWindows95が発売されたが、我が事務所は1年以上購入を見送った。すぐに飛びついてもあまり良いことはないだろうという思いと、Netware(Lite)がそのままでは使えないようだというのが理由だ。Windows95同士でピアツーピアのLanは組めるという話だが、やってみないとどれだけのものか分からない。一台をサーバーにして、今までのような使い方ができるかどうかも心配だし、事務所のパソコン6-7台を一度にWindows95に変えるのは費用がかかりすぎる。そうしているうちに、NetwareLiteのバージョンアップ通知が届いた。Windows95でも使えるということなので、早速バージョンアップを購入した。確か5ライセンスで16万円だったと思う。
それで一台のパソコンをWindows95にしてみた。ところがいざNetwareをインストールしようと説明書を読み始めたら、なんと(ドジなことに)最低でも16メガのRAMが必要と書いてあるではないか。今でこそたった16メガかと思うが、当時としては結構大変なことだった。事務所のパソコンで一番RAMを積んでいるマシンでも、14メガだ。念のため一応インストール作業はしてみたが、完結できない。さてどうしようか。
拡張スロットにRAMを追加するのは、負担が大きすぎるし、そのマシンがいつまで使えるのかも不安だ。新しいパソコンを買うのは、もっと費用がかかる。結局あきらめて、金銭的な余裕が出来るまで、当分我慢することにした。

ところがそれからしばらくして私にとって転機となる大きな出会いがあったのだ。
秋葉原ラオックスパソコン館の書籍売り場でいつも通りあちこち本をめくりながら、時間を潰しているときに、FreeBSD(98)という本に目がとまった。表紙に、NECパソコンにUNIXがインストールできると書いてある。これはひょっとすると救いになるかもしれない、と思いつつ、その3800円の本を買った。翌日、早速付属していたCDROMとフロッピーディスクで、バックアップ用に稼働していたマシンNEC-RA(確か11メガのRAMを積んでいた)をフォーマットしてインストールを始めた。はっきり記憶はないが、インストールするのに試行錯誤しながら3日かかったと思う。MS-DOSしか扱っていなかった人間にとって、パーティションだとかカーネルだとかパッケージだとかまごつく単語ばかりで、どうなることかと思ったが、とにかく3-4日後に無事UNIX(らしきもの)が動き始めた。SHELLがいくつもあって好きなのを選べるというのも驚きだった。私は一番分かりやすそうなTCSHにした。その日から毎夜数時間はどっぷりそのマシンと格闘した。

数ヶ月後、頑張った甲斐あってバージョンアップしたFeeBSD2.2.7でサーバーが稼働を始めた。xa7eをメインサーバーにし、RAをバックアップ用のサブサーバーとした。ネームサーバー(DNS)、ウェブサーバー(アパッチ)、ファイルサーバー(サンバ)、メールサーバー(sendmail)などがしっかり動き始めた。感動的だった。
Netwareと比べ、サンバは速くて安定している。ローカルハードディスクと同じくらいのスピードでファイルの読み書きができるのだ。またPPPで、クライアントがブラウザ(Netscape)を動かすと、FreeBSDサーバーがダイアルアップ接続して、インターネットにつなげてくれる。メールも定期的にフェッチして個々のクライアントに配信してくれる。今までの数十倍良くなった。安定度も抜群で、Netware時代は1週間に1回はサーバーが暴走し、そのたびにリセットを繰り返していたのだが、FreeBSDは全くハングしない。
しかも、ハードへの投資はゼロ。書籍代に合計1万円程度かかっただけだ。これから約10年、バージョンアップを繰り返しながら、このサーバーは動き続けた。止まったのは一回だけ。それも、FreeBSDが原因ではなく、ある夜、数秒間停電があったときだけだ。何の予告も無しに東電が勝手に電気を切ったのだ。いきなりのパワーダウンでFreeBSDが立ち上がらなくなり、復活するのに2日かかった。その上、ファイルの修復に手間取り、元通りになるにはさらに2日を要した。東電に電話をかけてクレームしたが、若い人間が菓子折も持たずに言い訳にやってきただけだった。その経験でオムロンのUPSを購入する羽目になった。それまで、全く考えなかったのがうかつではあったが、東電に対する大きな不信感が残った。まあ、しかしファイルの修復という滅多に出来ない経験が出来たのは収穫だったと思って我慢することにした。

パソコン通信

1994年にNiftyの会員になって、パソコン通信を始めた。Nifty以外にもサービスがあったように思うが、おそらく、アクセスポイントが多いのでNiftyを選んだのだと思う。当時は、電話回線で、2400bpsのモデムを使ってアクセスポイントに接続していた。今から考えると、ずいぶんちゃちな環境だが、当時はほかに方法がなかったし、テキストベースで通信をするにはそれでも十分だった。
市外電話の料金がまだ高い時代だ。アクセスポイントが遠ければ通信費が結構な金額になってしまう。だからアクセスポイントが多いのはたいへん大事なことだった。

最初は、相手がいないので電子メールは使ったこともなく、もっぱらニュースや企業情報を取ったり、フォーラムを覗いたりしていた。アクセスポイントにつなげると、

  1. サービス案内
  2. 電子メール
  3. 掲示板
  4. ・・・

などとメニューが現れる。番号を入力してエンターキーを押すと、次の画面に進む、という具合だ。

当時最大のパソコン通信ネットワーク、米国のCompuServeにアクセスすることも出来た。はじめからそのアクセスサービスが付属していたのか、何らかの手続きを取ったのかは覚えていない。CompuServeの情報量の多さにはびっくりした。世界のニュースのキーワードクリッピングサービスで、日本では見られないインドネシアのニュースなどもファイリングすることができた(確か有料だったが)。

このテキストベースのパソコン通信はいつまで続いていたのか。ネットスケープのブラウザが現れてから、あっという間に不要になってしまった気がする。90年以降、パソコンや通信環境の変化はものすごかった、と改めて思う。