東芝ノートパソコンR734Kのキーボードを交換してみました

ノートパソコンR734Kの「A」キーと「Shift」キーが反応しなくなってしまったので、キーボードを新しいものに交換しました。数ヶ月前ですが、忘れないうちにメモを残します。

キーボードの取り外し

インターネットで購入したキーボードの裏にフラットケーブルがついていたので、ノートパソコン本体のキーボードを剥いで外し、そこにあるだろう端子につなげれば作業が終わると思って、まずキーボードを剥いでみました。

こういうことをやる専用のヘラが売っているらしいですが、たまたま腕時計の裏蓋を外すヘラがあったので、それを流用しました。 ヘラをキーボードの端に差し込んで、本体のプラスティックを傷つけないように注意しながら、バリバリと少しずつ剥いでゆきます。 結構きつい両面テープでキーボードを留めてあるので時間をかけてゆっくりやるのが肝要です。 キーボードがひん曲がっても、かまわずバリッと剥がします。

剥いでみたら予想が外れました。
フラットケーブルをつなげる端子はそこには見当たらず、 剥いだキーボードのフラットケーブルが中程から本体の中に入り込んでいました。 とうやら、マザーボード上の端子につながっているらしいので、 ノートを分解しないと作業ができないようです。面倒なことになりました。
(結論から言いますと、マザーボードの端子に繋げるために、全部分解してマザーボードも外す必要があるのです)

裏カバーの取り外し

まずバッテリーを外します(ロックを2カ所ずらして外します)
次にメモリースロットの蓋を外します。この蓋の下にも裏カバーを留めるビスが5個もありました。これも外します。
ノートの裏のビスをすべて外して裏カバーを取ります。ビスは全部で17カ所ありました。

マザーボードの取り外し

裏カバーを開けてみたところ、どれがキーボードの端子かは分かりますが、キーボードとつなげるためには、マザーボードも外さないと無理なようです。なぜこんな仕様になっているのか疑問ですが、仕方ないです。外すことにします。これは、次のページを参照しました。
http://dynabook.biz/reduce_pc/14358/
これだけ詳しく説明していただいてありがたい限りです。どうして最初からこのページを見なかったのか、本当にうかつでした。このページが見られなくなってしまうとまずいので、大雑把にメモしておきます。

ハードディスクがついている場合は、ハードディスクを外す必要がありますが、SSD仕様だったため、これは外さずに横にどかすだけで作業を続けることができました。ちょっとラッキー。

まずコネクターが見える全部のフラットケーブルをマザーボードから外します。フラットケーブル端子の差込口は大雑把に2種類あって、一つは黒い細長い棒をマイナスドライバーかピンセットで上にパチッと外すタイプで、もう一つは横の耳を手前にすっと引っ張り外すタイプです。この横耳の取り扱いが難しくて、外すのはそれほどでもないですが端子をはめ直すのが結構難しいです。キーボードの端子はこちらの方式だったのでちょっと苦戦しました。

・USB基盤の端子を外すとWifiカードが見えるのでこれも外します
・マザーボードの取り付けねじを外します
・マザーボードの陰(下)、Wifiスロットの下あたりについている電池コネクターとLANコネクターも外します。
・電源コネクターをヤットコペンチなどで持ち上げて外します(箸やピンセットでも大丈夫だと思います)。
・そうすると、マザーボードを裏返すことが出来ます。マザーボードの裏に見えるフラットケーブルを外すと、ようやくマザーボードが外れます。

キーボードの取り付け

ようやくここまでたどり着きました。あともう少しです。

先ほど外したキーボードを取り除き、本体に残っているキーボードを留めていた両面テープのかすをきれいにします
本体に、両面テープを貼ります。細いテープの方が作業しやすいので、出来るだけ細いテープを用意した方が良いです。全面に貼ると剥がすのがたいへんなので、適当に貼ります(しっかりキーボードがつけば良いです)。
キーボードの裏のフラットケーブルを本体の中程に差し入れてからキーボードを貼り付けます(あらかじめマザーボードのコネクターに届くかどうか確認します)。
端子をマザーボードのコネクターにしっかり装着してから、分解したときの逆の順番にマザーボードを取付けます。

これでようやく終わりました。ほぼ1日かかりました。次にやる機会があればこのメモを見ながら数時間で終わると思います。

Perl

Perlは最強のスクリプト言語だと思う。インタープリタなのに速いし、何より正規表現(パターン認識)が扱いやすくて優れている。テキスト処理は右に出るものは無いだろう。utf8文字が一般的になり、日本語文字(encode)の扱いが面倒になってしまったのが残念だが、それでもPerlの性能は他を圧倒していると思う。

初めてPerlに出会ったのは1999年、PerlでCGIを書けば動的ホームページを作ることが出来る、というのを雑誌で読んで、試しにウインドウ版をダウンロードしてWin95マシンにインストールした。うかつにも、FreeBSDにPerlが付属しているのを知らなかったのだ。Perlの勉強を始めて数ヶ月経ってから、実はFreeBSDには最初からPerlが付属していて、多くの人がそれでスクリプトを書いていることを知った。それまで必要ならBシェルスクリプトで間に合わせていたが、Perlで書いてみたら、はるかに楽で機能的なものが書ける。今まで何をやっていたのか、ずいぶん時間を無駄にしてしまった。

最初はバージョン4の勉強を始めたが、半年ほど過ぎ、2000年になってからバージョン5の機能を使うようになった。バージョン5はオブジェクト指向風にプログラミングができる。私は「実用 Perlプログラミング」という本を買ってきて勉強した(当時定価4500円)。この本はPerl教本の中で一番優れた本だと今でも思う。Perlを始めている人にはぜひ手に取って欲しい本だ。この本と「CGI&Perlポケットリファレンス」(これも優れもの)は今でもすぐ机の脇に置いてあって、必要なときに見ている。

この頃は、仕事が忙しくなかなか勉強が進まなかったが、1年後にホームページの商品ページと買い物かごをPerlのcgiで書いて載せた。いつしか何とかオブジェクト指向風に書けるようにもなった。

オブジェクト指向と言ってもPerlの場合は厳格なルールが少なく、自由きままだ。普通のスクリプト風に書いても何の問題もないし、オブジェクト指向風に書こうと思えば書ける、といったものだ。このルーズさが堪らなく良い。そのおかげでぐちゃぐちゃになって、後で苦労することも多い。それで今は、とにかくできるだけきれいなオブジェクト指向風に書くことにしている。

しかし、Perlの独特な略語には少々疑問を感じる。そのおかげで最初の取っつきにずいぶん苦労した。人の書いたものを見て勉強しようと思っても略語が多くてなかなか進まない。例えば「while (<>)」。何のことか分かるのにずいぶん時間を取られた覚えがある。キーボードを打つのが楽なので、今では私も略語を多用しているが、本当は略語はない方が良いと思うこともある。ただ、略して書けることがメリットになることも多い。この辺のところは、今後の記事にしたいと思っている。

Windows10小型PCの容量不足解消

昨日(11月7日)、あることがきっかけでWindows10を最新のver1703にアップデートすることになった。Cドライブの容量が2GBしか残っていないので無理かと思っていたが、何とかアップデートができた。今後の参考になりそうなので、記録しておく。

このページの目次:

  1. Cドライブが容量不足だ
  2. 容量不足解消の切り札、ジャンクションリンク
  3. フォルダーをDドライブに移動
  4. アクセス権で手間取ったフォルダーの削除
  5. ジャンクションリンクとシンボリックリンクの作成
  6. いよいよWindows10を最新ver1703にアップデート
  7. アップデート後の問題点と反省点

Cドライブが容量不足だ

ブログのサイドバーを編集しようとして、編集画面を開いたら、このedgeは最新ではないので、アップデートしろと注意されてしまった。何しろ、このマシンはちゃっちい安物だ。Cドライブ(SSD)が28GBしかない。それではさすがにどうしようもないので、拡張スロットに110GBのSSD、USBに1テラハードディスクをさして使っている。Cドライブは容量が2GBしか残っておらず、ブラウザを乗り換えたくてもインストールできない。仕方なくedgeを使っているという有様だったが、ほかのウェブページでも頻繁に、最新ブラウザを使うように文句を言われていた。なので、何とかしなくちゃと思ってはいた。しかし、どいつもこいつも何故こちらの都合も聞かずに勝手にCドライブにインストールされてしまう仕様なのか、本当に不便だ。
調べると、最新バージョンは、edgeだけアップデートというわけにはいかず、win10そのものをアップデートする必要があると分かった。それで、マイクロソフトのページでチェックしたら、容量不足でアップデートできません最低でも8GB必要ですと、言われてしまった。とりあえず、主だったアプリ(オフィスなど)を一旦アンインストールしてアップデートしようかと思ったが、まず、もっと楽で良い方法がないか探してみることにした。

容量不足の切り札、ジャンクションリンク

UNIX系OSならなじみのシンボリックリンクだが、ウィンドウズにも似たものがあると、始めて知った。米国のMSフォーラムに、こんな記述があった。

>MKLINK /J “C:\Program Files\Microsoft Office 15” “O:\Program Files\Microsoft Office 15”
>MKLINK /J “C:\Program Files (x86)\Microsoft Office” “O:\Program Files (x86)\Microsoft Office”

This created junction points for each directory on the C drive that Office installs to, and point them to the O drive. So the OS thinks its going to C drive for those folders, but in reality its going to the O drive.

これは使えそうだ。要するに、Cドライブにインストールしているアプリを、フォルダーごとそっくりDドライブに移動して、ジャンクションリンクなるものを作成したら、OSはそのアプリをCドライブにあるものと見なしてくれるということだ。ジャンクションリンクを作るには、コマンドプロンプトで「mklink /j」すれば良い。これなら、Cドライブの容量不足を解消できそうだ。
早々我マシンで容量を食っているアプリをDドライブに移動することにする。office365とadobe acrobat readerとatokとInternet ExplorerをDドライブに移動してジャンクションリンクを張ろう。これで8GB以上空くはずだ。ひょっとしたらc:\Program Files をまるごと、移してしまうことが出来るかもしれないが、何か心配なので、とりあえずこの方針で行く。

フォルダーをDドライブに移動

まず自分に管理者(Administrators)権限があるかどうかを確認する。さもないといろいろ面倒なことになる可能性がある。設定で確認すると、大丈夫だ、管理者と書いてある。ファイルエクスプローラーでいきなり移動するのは途中で電源がブチッといったときなど少々心配なので、とりあえず、

  1. フォルダーをDドライブにコピー
  2. Cドライブのフォルダーを削除
  3. ジャンクションリンクを作成

の手順をとることにする。では早速始めよう。まずOffice365だ。ファイルエクスプローラーで、C:\Program Files\Microsoft Office を D:\Program Files\Microsoft Office にコピー。少し時間がかかるはずなので、コーヒーブレイク。ところが戻ってきたら、エラーが出ている。
「AppvlsvStream32.dll ファイルが見つかりません!」だと。そのファイルの詳細を見ると、種類のところに symlink と記載がある。シンボリックリンクなのでこの場所には実態が無い、だから別の場所には移せないということか。検索すると、全部で21カ所シンボリックリンクがあった。仕方ない、面倒だが、これは一旦削除して、Dドライブに移動後、同じシンボリックリンクを作成することにする。とりあえず、この21カ所を除いてコピーは終わった。

アクセス権で手間取ったフォルダーの削除

今度はCドライブのOfficeの削除だ。管理者なので、ファイルエクスプローラーで簡単に削除できると思っていたが、いざ始めると「アクセス権限が無い」と注意されてしまった。ファイルを右クリックしてプロパティのセキュリティ項目を見ると、ファイルオーナーが Trusted Installer になっていて、何と administrators にも書き込み権限がない。編集ボタンを押してフルコントロールにチェックすれば良いはずだが、グレー表示でそれも出来ない。そうするとオーナーを users または administrators に変更してから、権限をフルコントロールにするという方法をとるのだろう。この手順がかなり面倒なので、箇条書きにしてまとめておく。

  1. 管理者として作業する
  2. file explorer で削除したいファイル・フォルダーを右クリックする
  3. プロパティをクリックする
  4. セキュリティタグをクリックする
  5. 詳細設定ボタンを押す
  6. 所有者変更をクリックする
  7. 所有者を「users」に変更して、OKする
    (選択するオブジェクト欄に「users」と記入してOKする)
  8. 編集ボタンを押して、usersを選択する
  9. アクセス許可:users で「フルコントロール」をチェックする
  10. OKする

これは時間がかかった。Linuxだったらシェルでパパッとできるのに、と恨めしい。ひょっとしたら、こちらの勉強不足で、Windowsでもコマンドプロンプトで簡単にできる方法があるのかもしれない。とにもかくにも、この方法で最下層から上層まで順にフォルダーの権限を変更しながら、削除を完了した。

ジャンクションリンクとシンボリックリンクの作成

ようやくここまで来た。あと少しだ。
ジャンクションリンクを作るのは、簡単だ。コマンドプロンプトを管理者権限で立ち上げて、

> mklink /j “C:\Program Files\Microsoft Office” “D:\Program Files\Microsoft Office”
> mklink /j “C:\Program Files\Microsoft Office 15” “D:\Program Files\Microsoft Office 15”

とすれば良い。次は、コピーできなかったシンボリックリンクファイルの作成だ。これも一つ一つの作業は簡単だが、多数あるので、間違わないように細心の注意が必要。どのフォルダーに何のシンボリックリンクがあったのかは、しっかり記録しておくこと。私のOffice365の場合は、次の6ファイルのシンボリックリンクが21カ所あった。

AppvlsvStream32.dll
AppvlsvSubsystems32.dll
C2R32.dll
AppvlsvStream64.dll
AppvlsvSubsystems64.dll
C2R64.dll

シンボリックリンクの個々の作成は、コマンドプロンプトでこうする。

>mklink “c:\Program Files\Microsoft Office\root\VFS\ProgramFilesX86\Microsoft Office\Office16\AppvlsvSubsystems32.dll” “c:\Program Files\Common Files\Microsoft Shared\ClickToRun\AppvlsvSubsystems32.dll”

今度は、/j オプションは不要だ(単に mklink “・・・” だ)。これを21回繰り返して、やっとOfficeが終わった。

いよいよWindows10を最新ver1703にアップデート

上述の作業をatokとadobe acrobat readerとinternet explorerで繰り返し(Officeほど大変ではない)、ようやくCドライブに8.5GBの空きが生まれた。マイクロソフトのページで「今すぐアップデート」を押すと、今度は文句を言われず、アップデートが始まった。とりあえずうれしい。が、まだまだ油断は出来ない。夕食後、無事アップデートが終わっていたので、立ち上げてみた。

すると、Dドライブに移動した、OfficeとAcrobat Readerとatokが動かない。ちょっと慌てたが、おそらくジャンクションリンクが認識できないのだろうと思い、ジャンクションリンクを一旦削除して作成し直してみた。コマンドプロンプトを管理者権限で動かして

> mklink /j “C:\Program Files\Microsoft Office” “D:\Program Files\Microsoft Office”
> mklink /j “C:\Program Files\Microsoft Office 15” “D:\Program Files\Microsoft Office 15”
> mklink /j “C:\Program Files\JustSystems” “D:\Program Files\JustSystems”
> mklink /j “C:\Program Files(x86)\Adobe” “D:\Program Files(x86)\Adobe”

すると今度は、何事も無かったように、ちゃんと動いた。

アップデート後の問題と反省点

しかし、atokが不安定になっている。Edgeで漢字変換できない。調べると、Win10をアップデートしたら他社製FEPは再インストールするように書いてある。仕方ない。アンインストールしてインストールし直した。今度は普通に動く。atok以外に、アップデートで動かなくなったり、調子の悪くなったアプリが複数あった。再インストールするのはそれなりに面倒だ。こういうことがあるので、シリアルナンバーなどはちゃんと管理しておく必要があると痛感したのだった。
一方Internet Explorerは、勝手に新しくCドライブにインストールされてしまった。これは、OSの付録アプリだから有無を言わさず入れてしまう、いうことだろう。今回の反省点として、

  • atokは単にアンインスートルし、OSアップデート後に再インストールするべきだった
  • Internet Explorerは、単にフォルダーごと削除をすれば良かった(勝手にインストールされる)

ということ。とにかく無事にアップデートが完了した。

最後のNECとDos-V(PC/AT互換機)

1998年にクライアント機を1台買い換えた。Windows98のNEC9821-Mateだ。Dos-Vにしようと思っていたが、秋葉原ラオックスの裏にある店でタワー型のMateがえらく安く売られていたのだ。このマシンは4-5年クライアントとして働いていたが、その後FreeBSD機となり、前述のXa7eとともにサーバーとして2012年まで働いた。このMateが私にとって最後のNEC機となった。

2000年に買い換えたクライアント機は、富士通のDos-Vだった。OSは出たばかりのMEではなくウィンドウズ98にしたかったのだが、何故かMEを載せたパソコンの方が遙かに安かったので、仕方なくMEにした。NECも確か少し前には独自路線を減らし主力をDos-V機に移行し始めていたと思う。しかしハードは旧NECの方がずっと優れていたように思う。組んでいるビス一つにしてもDos-V機より良いものを使っていて、作りがしっかりしていた。だから10年以上普通に使えた(xa7eは17年、mateは14年間稼働した)。キーボードも打ちやすかったし配列もDos-Vより良かった。本当はキーボードだけでも独自なものを残して欲しかった。それならNEC機を続けて使っていたのではないだろうか。

事務所のパソコンにはまだWindows3.1のNEC9801が働いていたが、2001年頃にはMateとxa7e以外すべてDos-V機になっていた。Windows95以降、Dos-V機の方がNECより安定していたように思う。NEC98シリーズに10年以上親しんだ身としては寂しい限りだ。しかしFreeBSDのおかげでサーバーとして寿命を全うしてくれたと思う。ところで何故日本勢はWindowsのようなOSが作れなかったのか、そこに日本という国というか社会(または日本人)の足りないところが見えるような気がする(ちょっと大げさかなあ)。

引っ越し

ワードプレスで最初の投稿

ブログを引っ越して来ようと思う。しかし、投稿した日付に余り意味の無い記事、例えば思い出話などは問題ないが、日付に意味があるものはどうすれば良いのか。自分以外の人間が見ることは想定していないので、SEOは気にしないが、日付が変わってしまうと困る記事もある。とりあえず、インポートしてから考えよう(どうやってインポートするのか分からないが)。

文章は、自分で読んでも不明なところは、書き直すようにする。カテゴリーは「パソコンとインターネット」「その他」の2種類で良いと思う。Tagは少し細かく付けてみたい。
ところで、HTMLの編集はどうするのか。やたら無駄に「br」などが使われていたら嫌だし、自分で、styleを決めたいこともある。CSSの追加が出来るとうれしいが。titleがh1なのかとか、今書いている部分は全部 p タグで囲まれているのかも知りたい。

本ブログの主題は「私のパソコン関係の出来事」、現在進行系および過去に起こったこと。副題はその周辺で起こったこと、例えば出張先で驚いたことなど、を書く気になったときに書く。

スリナム出張で驚いたこと(番外編)

アトランタオリンピックの時のスリナム出張の思い出。前の記事で、日本とスリナムの通信について書いたが、それ以外のことで驚いたことについて書き記しておく。

マイアミ空港の日本人

スリナムに向かう朝、早朝便(多分7時か8時)だったので、6時頃スリナム航空のカウンターに行った。すると、同乗する客の中に日本人はまずいないだろうと思っていたが、50歳代と思われる日本人男性がカウンターで怒鳴っている。後ろに並ぶと、職員が、飛行機が遅れるのでまだチェックインできないと言っている。その男性は英語が分からないようで、何故手続きできないのかと日本語で怒っている。仕方なく私がその男性に飛行機が遅れていることを説明した。職員が3時間後に来るようにと言うので、それを伝えたら、ようやく落ち着いて、心配だからここで待っていると近くの椅子に座った。話を聞くと漁業関係者でスリナムに魚を買い付けに行くと言う。今、日本で売られているししゃもはほとんどがししゃもに似た何とかという魚でスリナムなどの南米大西洋側から輸入されているのだそうだ。はあ、なるほど、でもスリナムで言葉は大丈夫ですかと聞くと、心配ない、日本語だけで何とかなるとおっしゃる。この方、パラマリボ(スリナムの首都)に着くとちゃんと現地の人の迎えが来ていて車に乗ってどこかに向かって行った。しかし度胸のある人がいるものだと感心した。あの調子で一人で日本からやってきたのだ。

マイアミ空港のサンドイッチ

待ち時間が長くなったので、何か腹ごしらえしようとその辺をぶらぶらしていると、オープンスペースのコーヒー店があった。軽食もあるようなので、何か食べようと中に入った。サンドイッチが3、4種類あったが、売れてしまってこれしか残っていないという7ドルの「ターキーサンドイッチ」とコーヒーを注文した。高いな、まあ空港だからこんなものか、と思っていたら、マックの3倍くらいのパンに、はみ出るほどのターキーが7枚挟まって出てきた。あんたはラッキーだ、普通は6枚だが、これが最後の注文なので、残った肉を全部挟んだ、ははは、と言っていた。それにしても、6枚でも食い過ぎだろ。どうりで太めの人間が多い。

パラマリボの水道

この話は信じない人が多いのだが、パラマリボは水道の水が直接飲める。
今まで、水道の水を飲んで良いと言われたのは日本とシンガポールだけだったので、
ここで水道の水を飲めると言われたときは半信半疑だった。
確かに見た目はきれいに澄んでいるが、本当に飲んだら間違いなく下痢だろうと思った。
だが、湯沸かし器もないし、仕方ない、信用して飲んでみようと、思い切って飲んでみた。すると結構おいしいではないか。日本の水より少し硬い感じがしたが、それがかえって良い。スリナムにいた約10日間ずっと飲み続けたが何も起こらなかった。この話を帰国して話したら、おまえだから大丈夫だっただけだろうと、パラマリボの水の良さは誰も信用してくれなかった。

スリナムの鳥

これには感激した。朝起きて散歩をしていると、木々の花の間にきれいな虫が飛んでいる。
何だろうと思ってよく見ると、虫ではなく鳥だ。小さな鳥が花の蜜を吸っているのだ。それも何十匹となく飛び回っている。これがハチドリか、初めて見た。それにしても町の中にいくらでもいるのは驚きだ。皆に見せてあげたいと思った。もう少し大きい鳥、ムクドリくらいのインコも飛んでいる。色鮮やかなインコが日本のスズメのようにその辺を飛び回っている。最近東京でも見る(2017年現在のことです)緑インコではない。赤や黄色の美しいインコだ。そういえば、インコとの生存競争に勝てないのか、スズメは見ない。
さらに驚くのは、郊外に出るとコンドルがその辺をうろうろしていることだ。何十匹ものコンドルがカラスのように高い木の枝に止まって下を眺めている。下に降りてきて何か餌をつっついているのもいる。朝事故で死んだ犬とかがころがっていても片付ける必要はない。夕方にはすっかり骨になっていると言う。おそらく本当のことだろうと思う。そういえば、やはりカラスは見ない。

日本大使館

これは書こうかどうか迷ったが、驚いたことなので、書いておく。

パラマリボにも日本大使館があった。大使館と言っても、貸しビルの2階と3階だ。多分、暫定的にそこで開いているのだと思う(おそらく現在はちゃんとした大使館があるのだろう)。私は治安情報が欲しかったので、パラマリボに着いた翌日住所を調べて大使館を訪ねた。滅多に来ない日本人のはずなので、ちょっと歓迎してくれるのではないかと、期待して中に入ったのだが、とんでもない。大使つきの・・さんという男性職員が出てきて、民間人とは関わりたくないと、けんもほろろの対応だ。スリナムの治安について情報が欲しいのですが、と言うと、私どもも赴任して間もないのでよく分からない、まあ気をつけて行動してくださいと冷たく言われた。そういえば、ジャカルタでプレジデントホテルに宿泊しているときに先輩から、何かあったら日本大使館ではなく英国大使館に飛び込め、さもなくばロシア大使館だと言われたのを思い出した。プレジデントホテルの目の前には、日本大使館とロシア大使館が並んでいる。ホテルに向かって右手には英国大使館があった。なるほど、こういうことかと改めて思った。

チェロキーとランクル

トヨタ自動車の宣伝になってしまいそうなので、ちょっと躊躇するが、思い出として書きとどめる。

パラマリボに着いた翌々日と思うが、車で地方に出かけた。知り合いの華僑の製材工場建設の視察だ。工場はパラマリボから100キロくらいの場所だったと思う。道路状況があまり良くないと言うことで、3500か4000CCジーゼルのランクルと、もう一回り大きい(多分4000CC以上と思う)チェロキーで出かけた。こちらの方が乗り心地が良いというので、私と知り合いはチェロキーに乗り、知り合いの部下数名がランクルに乗った。ところが運悪く途中で雨になった。ひどいどろ地(砂と粘土が混ざったような感じ)でジープでも通れないかもしれないと、はらはらするほどのぬかるみだ。そんな中を何とかとろとろ進んでいたが、チェロキーが泥にはまって動かなくなった。4駆の右側2輪が深みにはまったのだ。ドライバーがアクセルを踏むとタイヤが土をほじって左側まで沈んでしまった。ランクルの運転手の方が慣れていると言うことで、運転を代わったがどうにもならない。たまたま近くに木も建物もなくウィンチは使えない。ちょっとリスクがあったが、後ろにいたランクルが左側を何とかすり抜けてチェロキーの前に出た。ランクルがロープでチェロキーを引っ張り上げてみることになった。2台とも泥に埋まってしまうのではと心配したが、数分後にはランクルのトルクでチェロキーが深みから抜け出た。すごい。発展途上国でランクルが幅をきかせている理由がよく分かる出来事であった。

Dos-Vノートパソコンと後進国日本

1995年、持ち運び用にノートを買った。東芝のDos-V(PC/AT互換機という意味で使う)のWindows3.1マシンで、海外出張時にも常時持って歩いた。
SS433というB5ノートだったと思うが確信はない(まだ捨てていないのでどこかにあるはずだが…)。タッチパッドはなく丸いボッチ(アキュポイント)が付いていた。あれは使いやすかった。メールがまだ一般的でなく、カードスロットにモデムを差して、Niftyのパソコン通信でニュースを取ったり、ファックスを発信したりしていた。

アトランタ五輪の時に出張でニューヨーク、マイアミ、パラマリボ(スリナムの首都。こんな国知らないでしょ?)に行った。日本がブラジルに勝ったサッカーの試合「マイアミの奇跡」をマイアミのホテルのテレビで観戦した(どうしてスタジアムに行かなかったのか?)。
そのときもファックス送信などでノートが活躍してくれた。

あの出張で一番びっくりしたのは、アメリカでもスリナムでも電話機の手前か横にモデム用の端子があって、どこでもさっとモジュラーケーブルを差してパソコンをつなげることが出来たことだ。日本にはそんな電話機はなかった。日本で出張したときは、ホテルの電話機から電話線を外して、自分のモジュラーケーブルをつけなければならなかった。そのために、モジュラー線どうしをつなげるアダプタを持ち歩いていた。しかも、値段の高いホテルは電話線が外れないのが普通で、お話にならなかった。あの頃から日本の通信環境(に関する考え方)は後進国だったのだ。

スリナムはひどい遅れた国で、国際空港と言っても日本の地方空港より小さくて、空港建物も木造がメインだった。タラップもないので、出入りできる飛行機はオランダのフォッカー28のような階段付きの飛行機だけだ。しかも滑走路が短いために、ダグラスDC9は階段が付いていても、離着陸できないということだった。首都にちゃんとしたホテルもなく、宿のシャワーはお湯も出なかった。ただあの町が良いと思ったのは、電話機にモデム端子が付いているのと、
スズメの代わりにインコやハチドリがその辺を飛び回っているのと、カラスの代わりにコンドルがたむろしていることだ。
そんな国より、日本のパソコン通信環境は劣っていたのだった。

Windows95とFreeBSD

95年の秋にWindows95が発売されたが、我が事務所は1年以上購入を見送った。すぐに飛びついてもあまり良いことはないだろうという思いと、Netware(Lite)がそのままでは使えないようだというのが理由だ。Windows95同士でピアツーピアのLanは組めるという話だが、やってみないとどれだけのものか分からない。一台をサーバーにして、今までのような使い方ができるかどうかも心配だし、事務所のパソコン6-7台を一度にWindows95に変えるのは費用がかかりすぎる。そうしているうちに、NetwareLiteのバージョンアップ通知が届いた。Windows95でも使えるということなので、早速バージョンアップを購入した。確か5ライセンスで16万円だったと思う。
それで一台のパソコンをWindows95にしてみた。ところがいざNetwareをインストールしようと説明書を読み始めたら、なんと(ドジなことに)最低でも16メガのRAMが必要と書いてあるではないか。今でこそたった16メガかと思うが、当時としては結構大変なことだった。事務所のパソコンで一番RAMを積んでいるマシンでも、14メガだ。念のため一応インストール作業はしてみたが、完結できない。さてどうしようか。
拡張スロットにRAMを追加するのは、負担が大きすぎるし、そのマシンがいつまで使えるのかも不安だ。新しいパソコンを買うのは、もっと費用がかかる。結局あきらめて、金銭的な余裕が出来るまで、当分我慢することにした。

ところがそれからしばらくして私にとって転機となる大きな出会いがあったのだ。
秋葉原ラオックスパソコン館の書籍売り場でいつも通りあちこち本をめくりながら、時間を潰しているときに、FreeBSD(98)という本に目がとまった。表紙に、NECパソコンにUNIXがインストールできると書いてある。これはひょっとすると救いになるかもしれない、と思いつつ、その3800円の本を買った。翌日、早速付属していたCDROMとフロッピーディスクで、バックアップ用に稼働していたマシンNEC-RA(確か11メガのRAMを積んでいた)をフォーマットしてインストールを始めた。はっきり記憶はないが、インストールするのに試行錯誤しながら3日かかったと思う。MS-DOSしか扱っていなかった人間にとって、パーティションだとかカーネルだとかパッケージだとかまごつく単語ばかりで、どうなることかと思ったが、とにかく3-4日後に無事UNIX(らしきもの)が動き始めた。SHELLがいくつもあって好きなのを選べるというのも驚きだった。私は一番分かりやすそうなTCSHにした。その日から毎夜数時間はどっぷりそのマシンと格闘した。

数ヶ月後、頑張った甲斐あってバージョンアップしたFeeBSD2.2.7でサーバーが稼働を始めた。xa7eをメインサーバーにし、RAをバックアップ用のサブサーバーとした。ネームサーバー(DNS)、ウェブサーバー(アパッチ)、ファイルサーバー(サンバ)、メールサーバー(sendmail)などがしっかり動き始めた。感動的だった。
Netwareと比べ、サンバは速くて安定している。ローカルハードディスクと同じくらいのスピードでファイルの読み書きができるのだ。またPPPで、クライアントがブラウザ(Netscape)を動かすと、FreeBSDサーバーがダイアルアップ接続して、インターネットにつなげてくれる。メールも定期的にフェッチして個々のクライアントに配信してくれる。今までの数十倍良くなった。安定度も抜群で、Netware時代は1週間に1回はサーバーが暴走し、そのたびにリセットを繰り返していたのだが、FreeBSDは全くハングしない。
しかも、ハードへの投資はゼロ。書籍代に合計1万円程度かかっただけだ。これから約10年、バージョンアップを繰り返しながら、このサーバーは動き続けた。止まったのは一回だけ。それも、FreeBSDが原因ではなく、ある夜、数秒間停電があったときだけだ。何の予告も無しに東電が勝手に電気を切ったのだ。いきなりのパワーダウンでFreeBSDが立ち上がらなくなり、復活するのに2日かかった。その上、ファイルの修復に手間取り、元通りになるにはさらに2日を要した。東電に電話をかけてクレームしたが、若い人間が菓子折も持たずに言い訳にやってきただけだった。その経験でオムロンのUPSを購入する羽目になった。それまで、全く考えなかったのがうかつではあったが、東電に対する大きな不信感が残った。まあ、しかしファイルの修復という滅多に出来ない経験が出来たのは収穫だったと思って我慢することにした。

パソコン通信

1994年にNiftyの会員になって、パソコン通信を始めた。Nifty以外にもサービスがあったように思うが、おそらく、アクセスポイントが多いのでNiftyを選んだのだと思う。当時は、電話回線で、2400bpsのモデムを使ってアクセスポイントに接続していた。今から考えると、ずいぶんちゃちな環境だが、当時はほかに方法がなかったし、テキストベースで通信をするにはそれでも十分だった。
市外電話の料金がまだ高い時代だ。アクセスポイントが遠ければ通信費が結構な金額になってしまう。だからアクセスポイントが多いのはたいへん大事なことだった。

最初は、相手がいないので電子メールは使ったこともなく、もっぱらニュースや企業情報を取ったり、フォーラムを覗いたりしていた。アクセスポイントにつなげると、

  1. サービス案内
  2. 電子メール
  3. 掲示板
  4. ・・・

などとメニューが現れる。番号を入力してエンターキーを押すと、次の画面に進む、という具合だ。

当時最大のパソコン通信ネットワーク、米国のCompuServeにアクセスすることも出来た。はじめからそのアクセスサービスが付属していたのか、何らかの手続きを取ったのかは覚えていない。CompuServeの情報量の多さにはびっくりした。世界のニュースのキーワードクリッピングサービスで、日本では見られないインドネシアのニュースなどもファイリングすることができた(確か有料だったが)。

このテキストベースのパソコン通信はいつまで続いていたのか。ネットスケープのブラウザが現れてから、あっという間に不要になってしまった気がする。90年以降、パソコンや通信環境の変化はものすごかった、と改めて思う。

Windows3.1

1993年にWindows3.1を導入した。
今までと一番の違いは、シングルタスクではなく、マルチタスクになったことだ。MS-DOSもバージョンアップして一応マルチタスクになっていたが、タスク切り替えが不便で使い勝手が悪かった。Windowsはマウスでアプリケーションの切り替えが出来るので、わかりやすく、快適だ。見栄えもアップルのようにきれいになった。ただ、マウスの作業が増えると、目は疲れるし肩は凝るし、今までの倍疲れる。かえって効率が下がったような気さえする。安定感ももう一つでよく暴走した。

Windows3.1はベースがMS-DOSなので、NetwareLiteやdBASE3もそのまま使えた。これは助かった。数年後には両方ともお蔵入りすることになるのだが、よく働いてくれたと思う。dBASE3はCUIの上スタンドアロンが前提なので、一般的には使いにくい(実は個人的にはデータベースはGUIよりCUIの方が適しているように思う)。サーバーにデータを置いて、皆でそれを利用するという使い方が出来ない。そろそろ別の何かを考えないと支障が出てくるかなと思う。
表計算がエクセルになり、従来dBASE3で処理していたことの多くがエクセルで出来るようになった。エクセルのファイルをサーバーに置いておけば、とりあえず全員が使える。かっこよい表も作成できるようになった(しかし見た目にこだわるようになって、仕事の効率をかえって下げる原因にもなった)。
日本語FEPはいろいろ発売されていたが、ATOKが一番だった。変換ミスが圧倒的に少ない。マイクロソフトのFEPは全くだめだった。